うけいれる|J・D・サリンジャー「フラニーとゾーイー/Franny and Zooey(1961)」

学校や職場や世の中もろもろが、すべてがみみっちくて、つまらなくて、悲しく感じられ、もう付き合いきれなくなってしまったと感じたことがありませんか。そしてまた、みみっちい周囲と同じように自分自身もまた愚かでみみっちいと感じたことは。この世界の誰もがみみっちく卑小なのだとすれば、なにもかもが未熟なエゴにより突き動かされ、醜く汚い世界が続くのであれば、頭から布団をかぶってずっと眠ってしまいたい。そう感じたことはありませんか。
そして、自分の未熟なエゴにも辟易して、熱中していた物事や、打ち込んでいた仕事を放り出して、辞めてしまうかもしれない。
大抵の場合、それは周囲からは気分的な変調だとか、あるいは怠け者と言われることもあるかもしれない。もしかしたら眠り続けたら自然とばかばかしい気持ちから抜け出せるかもしれない。けれども、一時の現実逃避は何の慰めにもならず、もう一生このまま、未熟なエゴを抱える自分を認めることも、また世界を認めることもできないかもしれない。
そんなとき、この本がなにかヒントになるかもしれない。今すぐ何かするヒントにはならなくても。

作品の概要/あらすじ

  • J・D・サリンジャーが1955年に「ザ・ニューヨーカー」に発表した「フラニー/Franny」と、1957年に同誌に発表した「ゾーイー/Zooey」の連作二編の小説を1つにまとめたもの。1961年刊行。
  • 女子大生のフラニーとそのボーイフレンドのレーンの(散々な)デート風景を、リアリスティックに描いた「フラニー/Franny」に対して、その後自室に引きこもってしまったフラニーと兄ゾーイーの対話を描いた「ゾーイー/Zooey」は、誇張や良いよどみ、凡長な描写など、意図的に過剰な表現を採用している。
  • 実際の登場人物は少ないが、特に「ゾーイー/Zooey」ではグラース家とその兄弟に関する描写に多くが費やされ、自殺した長男のシーモアと作家になり遠方で隠遁生活をしている次男バディがしばしば取り上げられる。

みみっちくて、つまんなくて悲しい世界

要するに、誰も彼もなの。 みんなの やることがみんな、とてもこう 何ていうかなあ 間違ってるっていうんじゃない。い やらしいっていうんでもないわ。馬鹿げてるっていうんでもないの、必ずしも。でも、なんだか、みみっちくて、つまんなくて悲しくなっちゃう。
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫
フラニーは作品の冒頭からなにかに対して不機嫌でいらだっている。そして小説中に最初にその矛先を向けられるのが彼氏のレーン。対応もきちんとしているし常識人に描かれているため、読者にはフラニーが悪役でレーンが被害者のように見えると思うが、そうとも言い切れない。相性ということばがあるが、たぶん映像で描くと一瞬でかみ合っていない様子を描けるのだろう。
フラニーが否定した一覧
  • 彼氏
  • 無能な詩人
  • 大学・教授
  • 演劇サークル…

要するに何もかも気に入らない。

ときたまでいいからほんのときたまで いいから知識は知恵に通じるべきものだ、もしそうでなければ、それはいやらしい時間 の浪費にすぎないということを、表面だけのお上品な形をとっても仕方ないから、感じとら せてくれるものがあったら、わたしもあんなに参らなかったろうと思うの。 ところがそんな ものは絶対にない! 知恵こそ知識の目標であるはずということなんて、それを感じとらせ てくれる言葉を聞くことさえ、大学の中ではただの一度もない。
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫
フラニーは何もかも否定しつくす立場をとることで安定し穏やかでいられたら結果としてそれでもいいのだが、そうではない。フラニーは何かを求めているようにも見えるが、それが明確に形にならず、安定することなく、否定は動きを止めず、底の底まで否定しつくそうとする。問答のように。
そして聡明なフラニーが当初から気付いていることですが、フラニーは他人の未熟さや傲慢を否定しているだけではない。「自分自身」に対してもみみっちさを感じている。問題は世界だけではなく私にもあり、そこにはこれまで熱中していた演劇が深くかかわっている。

幼稚な「私」に満ちた演劇

つまり、何もかもがエゴなのよ。芝居に出たときは、いつも自分がたまら なくいやになった。舞台が終わってから楽屋にいるなんて。 みんな、すごく思いやりのある、 エゴがあちこち駆けまわってるの。 そこらじゅうの人にみんな接吻したり、 メーキャップはそのまんまでさ、それからお友達が楽屋に会いに来たりすると、 いとも自然で親しい態度をとろうとする。 わたしは自分がいやになった。….. いちばんいけ ないのはね、芝居に出てるのが、いつもこう、恥ずかしくなるのよ。
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫

演劇をすることが契機となって、自分の未熟なエゴが飛び出すことがいやだと言う。こうして、世界のみみっちさから自分のみみっちさ、つまり世界を否定するのみならず自分自身を否定する、さらに根深い議論へと入っていく。

みみっちくて、つまんなくて悲しい私

張り合うのが怖いんじゃないわ。その反対よ。分からない、それが? むしろ張り合いそ うなのよそれが怖いんだわ。それが演劇部をよした理由なの。わたしがすごくみんなか ら認めてもらいたがるような人間だからって、ほめてもらうことが好きだし、みんなにちゃ ほやされるのが好きだからって、だからかまわないってことにはならないわ。そこが恥ずか しいの。そこがいやなの。
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫
いっそ完全な無名人になりたいと思う私と、ちやほやされたい私
しかしながら最初からフラニーは知っている、自分もこれまで否定してきた他の人たちと同じようにばかげていることを
他人を否定すればするほど、その自分の傲慢さ、ばかげているおごった気持ちが浮かび上がる
それをフラニーは痛いほどわかる、それに気づかないほどに鈍感でいられたらいいのに
フラニーが否定したいのは、誰か特定のひとではなく、また何か特定のものではなく、自分を優れていると見せたがったり、人を貶めたりする人間の「未熟な」エゴ
当初はよくいるカップルのすれ違い、オカルトにとりつかれた女子大生の話かと思いきや、ここまでくると人間の未熟なエゴ全般についての問答の様相になる。
他者を否定する刃は自分を傷つけることとなり、フラニーは自己否定を深めていく
自分を肯定できない、自分のエゴを肯定できない、なにも肯定できない
「ライ麦畑」のホールデンがフィービーとの問答の中で「なんにも好きなものない」と追い詰められた場所
これは、おごり高ぶってみんな馬鹿だと言っているのではなく、この世になんの価値があるものを見いだせないということ
フラニーは必死でなにかにすがりつこうとする。それが「イエスの祈り」さらには「聖フランチェスコの世界」

私を変えてしまうための「イエスの祈り」/あいまいで傲慢な祈り

初めは唇を動かしてるだけでいいんですっ てそのうち遂にはどうなるかというと、その祈りが自動性を持つようになるっていうの。 だから、しばらくするうちに、何かが起こるんだな。何だかわたしにはわかんないけど、何 かが起こる。そして、その言葉がその人の心臓の鼓動と一体となる。そうなれば、本当に絶えることなく祈ることになる。それが、その人の物の見方全体に、大きな、神秘的な影響を 与える。そこが、肝心かなめのところだと思うんだな、だいたいにおいて。 つまり全般的な 物の見方を純粋にするためにこれをやれば、すべての物がどうなっているのか、まったく新 しい観念が得られると思うんだ」
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫

冒頭のフラニーから「イエスの祈り」が登場し、フラニーはオカルトにはまった女子大生のように見える。フラニーは自分や世界の未熟さに辟易して、どうにかして自分を変えてしまおうとしているが、「イエスの祈り」に実現でいるかもわからない。さらに、フラニーは何かを求めて他人や自分を激しく否定するが、「イエスの祈り」で解決できるのか明らかにならない。
特にこの「イエスの祈り」は、当初はその動機が明らかにならないため、なぜ登場したのかさえも明瞭でない。
当初、イエスの祈りとなにか全く新しい観念が得られることしかわからず、不明確なもの、とにかく質より量、神の名を唱えていれば必ずなのかが起きる⇒何も起きないし救われない、それにすがる自分のごうまんさが浮かび上がるばかり

偽りのやさしい世界/タッパー教授のいない世界

フラニーが救いを求めているのが、「イエスの祈り」ですが、その背後にはフラニーがお気に入りだった聖人の聖フランチェスコが背景にいるとゾーイーから指摘される。彼女が求める境地というのは、自分だけが聖人の仲間入りできるような、そこでエゴのない世界に行けるような、
これはきみがその祈りの使い方を誤ってるこ とになる。お人形と聖者とがいっぱいいて、タッパー教授が一人もいない世界、それを求め るために祈ってることになってしまうじゃないか
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫

しかしこれもゾーイーからこのように否定される、都合のいい祈りだと。

なにもすがりつくものがない、自己否定の中ですがるものがない。
彼女が救いとして最後に思いついたのが、精神的な核心であり、かつもういない存在
シーモアに会いたいという絶望、つまり、人間すべてに潜むエゴのない世界に行くためにはこの世的でない世界に行くしかない

果てしない現実逃避は死さえも見えてくる

ベッドルームの思想論争

「若い女の子が部屋の中で寝たまんま四十八時間も泣いたり独りごとを言ったりしてるんですよ。そんな子に返事なんか聞きに行けますかいな」
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫

この自己否定のどん底は完璧で、しかも残りページがどんどん少なくなっていくので、これは解決できないように思われる
理屈や空っぽの知識やアイロニーに押しつぶされそうになりながら、なんとか必死になってフラニーの、そして読者の背中を押そうとするゾーイーとサリンジャーの姿に心動かされる。
ゾーイーの口の悪さがまたあたたかみを感じさせる
しかし初めて通読した当時、私は最初に読んだときに、その勢いに感動した気持ちになってしまったが、同時に正直「あれ…?」という気持ちも残った。置いていかれてしまった、うまく理解しきれなかった。
ゾーイーが武器として引っ張り出したのが、①演劇、②「イエスの祈り」の本質ということ
ここではその戦いを見ていきたい。

論争の結末/深い、夢もない眠り

この作品の最後の数ページは、感動的なように見えておそらくすべての読者にとって完全に腑に落ちるようになっていないと思う。問答の論旨を追いたくなるが、議論の道筋がぶれて不明瞭。あえてそのような形にしているのだと思うが。

少なくとも、読者が明確にわかるのは、

この戦いを通して、フラニーは思想的に救われたということ(その結果として深い眠り)

この一点だけ。ここでの深い眠りとは、エズミにて描かれたように、回復と再生の象徴として描かれる。特に、明らかに描かれるため、この場面だけが印象に残って、「とりあえずよくわからなかったけれど、ハッピーエンドだったのか…」という印象。それはこの戦いが、すべてベッドルームで行われる思想上の戦いだから。

では、そのよくわからなかった部分をできる限り読み込みたい。

これまでの経緯/ベッドから起き上がれなくなるまで

そもそも、フラニーはみんなと仲良くしたい子、しかし世の中には尊敬すべき偉大なひともいれば、軽蔑しつくしても足りないほど傲慢で意地っ張りな、未熟なエゴを抱えているように見える人間がうじゃうじゃしている。
他人の未熟なエゴを許せないと考えれば考えるほど、未熟なエゴに満ちたこの世界が許しがたくなってくる
また、それと同じように自分のエゴの未熟さも許せなくなってくる、
それなら、私か世界を変えるしかない、
世界を変えることは出来ないから、私を変えるしかない
「イエスの祈り」により「なにか新しい観念」を獲得することで、私を変えてしまおう。
けれども、そんな動機で「イエスの祈り」から何かを得たいと望むこと自体、下心ではないか
「イエスの祈り」を都合のいい聖者の世界に入り込むための手段と考えている、好きなものだけを選り好みしているだけじゃないか
自分も他の人と同じように欲張りで未熟なエゴに満ちていることがますます浮かび上がる、
私の、そして他人の未熟なエゴがますます許しがたくなる
そして世界を否定し、自己否定へ、カルト的思考

 

エゴの優劣

きみはいつもエゴをうんぬんするけど、いいか、何がエゴで 何がエゴでないか これは、キリストを待たなければ決められないことなんだぜ。 この宇宙 は神の宇宙であって、きみの宇宙じゃないんだ。何がエゴで何がエゴでないかについては、神が最後的決定権を持ってるんだ。
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫

そもそもそれぞれのエゴが偉大か、未熟かなど、区別できるものなのか。

フラニーがエゴに優劣をつけて、未熟なエゴを取り払おうとしているのに対して、ゾーイーはなにが未熟でなにが本当のエゴかなんて、人間にはわからないという。確かに、フラニーは都合のいいものを選り好みして、あれはいい、これはダメと、自分が傷つけられない世界を作っているが、結局それがむしろフラニーを閉ざし、追い込んでいる。

人間は、同じ人間のエゴについて、その優劣を判断できる立場にない、それが可能なのは神のみという主張がまずある。

イエスの本性/太っちょのおばさま性

それからよく聴いてくれよ――この『太っちょのオバサマ」とい うのは本当は誰なのか、そいつがきみに分からんだろうか?ああ、きみ、フラニーよ、 それはキリストなんだ。キリストその人にほかならないんだよ、きみ」
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫
ここから、すべての「…?」の原因だった「太っちょのおばさま=すべての人間=イエス」ということ
そもそもなぜイエス論に発展しているのかというと、つまりフラニーにとって生きるか死ぬか、最後にすがりついたのが「イエスの祈り」だから。兄が妹の最後の拠り所「イエスの祈り」を解釈しなおすことで、妹を救うことができるのかどうか。この「イエスの祈り」がなんなのかを生み出していく過程、そのサスペンスが「フラニーとゾーイー」の物語そのもの。
太っちょのおばさま=あらゆる未熟なエゴを抱えた人間=イエス
つまり、イエスは未熟なエゴを含めた人間性を有しており、むしろ未熟な人間であるということがイエスの本質であるということ、太っちょのおばさまからイエスまでみな同じ存在であること
太っちょのおばさま的存在=俗物で、日常性の中にいて、ちょっぴりみじめで、かわいくて、いずれ死ぬ存在
みなが等しく太っちょのおばさま性を持つ
それでは、「太っちょのおばさま」のために靴を磨け、とはどういうことか。
それは、思うに、みみっちい個別のスタッフのためと思わずに、太っちょのおばさまという「人間の本性=イエス」のために靴を磨き、芝居をすること
誰が太っちょのおばさま以上で、または以下か、誰がイエスに近いかなんて、フラニーにも、誰にもわからないこと
⇒しかし、だからといって、だからこそ人間全般が尊いというのではなく、また卑しいということもなく
⇒また、偉大なイエスの前であれば当然靴を磨く、だから、それと同じ存在である太っちょのおばさまの前でも靴を磨くということではないはず
⇒むしろひとを差別してはいけない、優劣を判断してはいけない、できないというシーモアの主張(バナナフィッシュ)
また、さらに言えば、スタッフのためには芝居をしたくないけれど、偉大な誰か先生のためなら芝居をするとなると、それは人間がエゴを選り好みする状態になる。ひとを選り好みしていると、いつか自分が我慢ならなくなり否定することになるよということ、そのやさしさ

 

ただし、イエスが太っちょのおばさま性を有しているというだけではもちろんない。イエスのもう一つの本質は、

イエス=聖書の中でいちばん聡明な人間=神と離れていないと合点=神の国は我々とともにある、我々の中にあると知っていた人物=最高の使命を与えられた達人

つまり、神と共にあることを常に了解していた、ということ、

ちなみに、ここでいう神とは、人間を越えた存在、というくらいで良いと思う。

ここまでくると、イエスの本質は

・太っちょのおばさま性を持ち
・神の国は我々とともにあり、神と離れていないと理解していた人間
「太っちょのおばさま的であり、かつ神と共にある人間」
である。
そして、このイエスの本性が太っちょのおばさまを経て私たち人間みなと共通しているということは、そのまま私たちが本来持っているはずの本性でもある。

「イエスの祈り」の核心/変わることではなく、受け入れること

ここまでくると、「イエスの祈り」の本質は
「イエスの祈り』の 目的は一つあって、ただ一つに限るんだ。それを唱える人にキリストの意識を与えることさ。
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫
イエスの祈り=イエスの意識を与えることを目的、そしてイエスの意識とは、前記したように、「太っちょのおばさまであり、かつ神と共にある」という意識
イエスの祈りによって、「いまここにいる私以外の私に変わる」のではなくて「いまここにいる太っちょおばさん性を備えた私を受け入れながら、神と共にあるための祈り」になった
つまり、イエスの祈りは、「変わるためのもの」ではなく、「受け入れるためのもの」であるということ
自分を都合のいい聖者たちのなかに昇華するためのものでなければ、自分だけが優れた宝を積めるようなものでもない。祈れば自分だけが救われるものではまったくない。
祈っていれば、勝手に自分がなにか新しい、都合のいい存在に変身できるものではないということ。
まさに「祈り」というよりは、まるで雑多な日常を受け入れるための「訓練」

未熟な自分から離れること/高いものに捧げるための芝居

「イエスの祈り」により、確かに意識は新たに変えられるかもしれない。けれども、それでは、ベッドの中でひたすら「イエスの祈り」を繰り返していればいいのか、それにゾーイーは明確に否定する。

ここで、演劇の本質とは何か

欲望を絶つこと。 「一切の渇望からの離脱」だよ。本当のことを言うと、そもそも俳優というものを作るのは、この欲求ということだろう。
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫
きみとして今できるたった一 つのこと、たった一つの宗教的なこと、それは芝居をやることさ。 神のために芝居をやれよ、 やりたいなら 神の女優になれよ、なりたいなら。 これ以上きれいなことってあるかね? 少なくともやってみることはできるよ、やりたければやってみていけないことは全然な いよ
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫
芝居=すべての渇望から離れていること
=自分の未熟なエゴや世界の未熟なエゴのために、その渇望を満たすために芝居をするのではなく、神のために芝居をすること
未熟なエゴを離れる、ひとつの手段としての演劇、自分を離れるということ
それが「神の女優」になるということ

「それにしても活動したほうがいいぜ、きみ。回れ右 しゃれこうべ するたんびにきみの持ち時間は少なくなるんだ。ぼくはいい加減なことを言ってんじゃない。 この現象世界には、くしゃみする暇さえないようなものさ」 そこでまた、前よりもっと短い 間、言葉が切れたが「…(略)…ぼくはね、きみ、死んだ暁には恥ずかしくない髑髏になりたいんだ。」
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫

「絶えず祈れ」ということの先に、行動があること、これが「フラニーとゾーイー」のすごさであり、最も価値のあるところだと思う。

もういちどチキンスープを受け入れるために/あなたらしく演じられるように

つまり、フラニーは

・太っちょのおばさま=イエスと同じ存在である私を受け入れるために「イエスの祈り」を実践すること
・未熟なエゴから離れることを芝居を通じて実践し、達人を目指しながら神に捧げること
「太っちょのおばさまであることを受け入れるために「イエスの祈り」を続け、かつ神と共にあるために芝居をすること」
結局フラニーは
・自分の未熟なエゴを否定するのではなく離れて、つまりそれは神のために、脇目を振らず芝居をやればいいし
・今より別の何物かになる必要なんてなくて、いまここにいる太っちょのおばさん性を備えた私を受け入れるために絶えず祈ればいい
これがわかったから、とても安心して眠りに落ちることができた
でも、ここからが難しい、つかの間の幸せな眠り、エズミのように、あなたの眠りのために、祈りのための実践が、行動が求められる、安易な救いなんてないという厳しい結末でもある
「絶えず祈れ」

フラニーは作品冒頭から「イエスの祈り」を通して未熟なエゴを持つ「私」が、未熟なエゴに満ちた世界のなかで生きていくために、まったく新しいなにかに「変わろうとしていた」。それは、例えば、未熟なエゴたちが絶えず威張ったり他人を打ち負かしたりする世界の中で、その中に入っていくための目に見えない防護服となるような、小さな子どもがおそろしい暗闇の中に入っていく際に唱えるおまじないのような。

そしてまた、その祈りを唱えることで、世の凡人よりフラニーの思う聖者に近づけるような、抜け駆けできるような。そんな存在に「変わろうとしていた」。

それは、みんなが未熟な世界で我慢がならないから、私だけが抜け出そうとしている。けれども祈りへの都合のいい動機はゾーイーに見透かされ、最終的にシーモアのいる死の世界を望むようになる。

では、物語の結末でどうなったのかというと、ゾーイーはフラニーに、もう変わらなくていい、変わる必要がない、さらに言えば、「イエスの祈り」という営みは、いまここにあるすべての未熟なエゴを「受け入れるためにある」ということに達したためだと思う。

これは正当な神学的な理解というよりは、ゾーイーのことばと理解により語られる。
本来のイエス観ではないかもしれないが、東洋思想に傾倒したサリンジャーであれば納得
「雑多で卑俗なこの世界を受け入れよう、そしてあなたらしく行動しよう」このシンプルなメッセージのために、ベッドルームで七転八倒の思想戦争を繰り広げるこの小説のおもしろさ。

グラース家の風景/小説の神が宿る細部の描写

小道具のすばらしさ、フラニー的虚無と戦うためのサリンジャーの小説家としての力量がいかんなく発揮されている

雑多な日用品の山

ここの家では、それぞれの宗教を別々の包みに入れている

そのままの部屋/ボード

Calling

残された電話

人が神に捧げられた一杯のチキン・スープを持っていって やっても、きみにはそれを飲むというだけの明すらない。この精神病院にいる誰彼のところ ヘペシーが持ってゆくチキン・スープは、すべてそういうスープなんだぜ。
ーJ・D・サリンジャー『フラニーとゾーイー』野崎孝訳 新潮文庫
日常性の象徴
一杯のチキンスープを否定して都合いい心地よい世界にいるわけじゃない
聖フランチェスコなど、自分に都合よくてここちよい世界に座っていたいけれど、不都合な日常の中でそれと和解する努力をしなければならない、それは思想的に引きこもるより何倍も難しいこと、だからこそ修行のような「祈り」が必要となる。
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