めぐる|チェーザレ・パヴェーゼ「月と篝火/ La luna e i falò(1950)」

故郷というものは不思議なことば、ある人は自分が生まれた場所から一歩も出ないで生涯を終えるし、またある人は幼少期から転々と様々に居住を帰る
そもそも世間でいう故郷というものが出生地を差すのか、それとも幼少期を過ごした場所なのか、判然としない
また、故郷に対する感情もひとそれぞれで、愛憎入り混じる
時が過ぎればすぎるほどに、若い頃は抱いていた愛憎入り混じる激しい感情が、距離が離れたことによる懐かしさに変わっていくこともある
そして、故郷自体も当然ながら、時の流れの中で変わってしまうものと自然や季節の移ろいなど、土地そのもののような変わらないものもある
また、時間が経るほど、例えば故郷に帰った者と故郷に残った者との立場や価値観もかけ離れ、難しいものになる
この小説はいくつかのテーマが内包され、しかもパヴェーゼの語り口も余地を残すような語り方であるため、読み取ることが難しい。
しかし、この物語の中で、主人公であるぼくは故郷の秘密に新たに立ち会い、静かにその認識を深める
もちろん個別のものは失われていく、それも悲劇的な形で、跡形もなく消えていく。けれども、すべての娘たち、すべての畑、人々の暮らし、そして生きて死んでいくことは繰り返されるという主張。
その繰り返しの厚みというものが土地であり、村であるということ。
個別のものは悲劇的に損なわれていくが、人の暮らしは季節のように繰り返される、そして何度でも悲劇が起きる、それを私が傍観する
この物語は主人公の個別の放浪の物語と対比する形で、その土地に根差した戦争や貧困の物語が経ち現れてくるというところが面白い、主人公は語り手であるとともに傍観者であり聞き手でもある

作品の概要/あらすじ

  • 同作品はイタリアの作家チェーザレ・パヴェーゼ(Cesare Pavese, 1908年9月9日 – 1950年8月27日)により1950年に発表された長編小説。同年に作家が自殺し同作品が最後の長編小説となった。
  • パヴェーゼの故郷でもあるイタリア北部のトリノ近郊の寒村が舞台
  • この小説は、イタリアの貧しい村に孤児として育ち、極貧の生活から抜け出し財を成して数十年ぶりに故郷に帰ってきた「ぼく」が物語る話。
  • 『「ぼく」が村に滞在する間に起こったこと、かつての自分のような男児と知り合い、その男児にもある事件が起きる』『「ぼく」の過去の話、孤児として生まれ、極貧の村に養子として迎えられる、また一家が立ち行かなくなったため、館に奉公する、世界への憧れ、手に入らないものへの焦燥や怒り、友人との青春とアメリカに渡った経験』『友人や村人から聞かされる男の不在中の戦争と死の話』などが入り混じる
  • ぼくはみずからの半生の語り手でもあり、村での休養の間の村の傍観者でもあり、友人から戦争に関する話を聞かされる傍観者でもある。それらの時系列が重層的に折り重なるが、結局ぼくは「すべては季節はめぐり還る」という認識を強くする。

故郷へ帰り着いた男、故郷に残り続けた男

私は孤児で生まれがわからない、村を出てからとどまることなく流浪した。だからこそその土地の文化や人間関係から自由であり、むしろその土地の季節や匂いの中に青春時代を見る
ヌートは村から出ることがなかった、むしろ「月と篝火」に象徴される農民の生活に親しいが、かといってまったく農村共同体に埋没しているわけでもない。

故郷の記憶/季節の匂い、収穫のとき

あのころのすばらしさは、すべてが季節どおりになされたことだった。そして季節は、 労働と収穫と、荒天と晴天とに応じて、それぞれの習慣と戯れとをもっていた。
ーパヴェーゼ『月と篝火』河島英昭訳 岩波文庫
バールから出たとき、 汽車に乗りかけたとき、あるいは夕がた帰ってきたとき、ふと、空にぼくは季節の匂い せんてい を嗅いでいた。剪定や、取り入れや、硫酸銅の撤布や、桶を洗ったり葦を刈り取るのは いまだ、とぼくは思い出していた。
ーパヴェーゼ『月と篝火』河島英昭訳 岩波文庫
私が根差しているのはこの村の誰かや人間の営み、文化ではなく、むしろ風の匂いや収穫の気配など、「季節」であるということ、その観点からすると、確かに変わってしまったものは多いが、重要なのは土地の自然であり、逆に人間的な営みは結局似たようなものがひたすらめぐり還ってくるという考えに至る。
この暑さが、ぼくは好きだ。それはひとつの匂いを持ってい る。この匂いのなかにぼくも存在している。このなかに、たくさんの収穫と乾し草と夢 窓とが、もはや自分の体内にあるかどうかもわからぬ、たくさんの味と願いとが、存在ている。
ーパヴェーゼ『月と篝火』河島英昭訳 岩波文庫

そしてぼくは、まるで生まれ変わったかのようにこの村に帰ってきた、貧困の幼少時代に会いに

故郷の生活/農村の営み

ヌー トは、決してここを離れようとしなかったのだが、それでも世界を知りたい、事態を変 えたい、季節の鎖を断ちたい、と願っていた。いや、そうではなくて、たぶん彼はつね 月を信じていたのだろう。けれどもぼくは、月を信じていなかったから、要するに季 節だけが大切であり、おまえの骨をこしらえたものは、子供のときにおまえが食べたも のは季節だ、ということしか知らなかった。
ーパヴェーゼ『月と篝火』河島英昭訳 岩波文庫
村を一歩も出たことがない大工のヌートは村の営み「月と篝火」の中にいる。進歩的な精神を持っているが、村の営みから抜け出すことができない。また、村と共に貧困や戦争の一部始終を見てきたことから、結局村と同じ

過ぎていった青春/手に入らなかった憧れ

汽車に乗ればどこへでも行ける し、鉄道が終われば港が始まり、船は定刻どおりに出航して、世界じゅうの道と港は交 差し、時刻表に則って人びとは旅をし、物事を作ったり壊したりしている、 そしてどこ にでも有能な人間と無能な人間とがいるのだ、と言ったのは、やはりヌートだった。
ーパヴェーゼ『月と篝火』河島英昭訳 岩波文庫
ぼくにとってヌートが広い世界への案内者でもあった、少しずつ学びながら村を抜け出したぼくと、楽士として村々の祝祭をめぐりながら暮らした別々の青春
ぼくのアメリカでの生活、イタリアの村での生活と異なるところ
ぼくにとっては当時の限られた世界のほうが懐かしいように感じられる場面も
黒ぐろと丘を照らし出した月夜の晩に、ヌートが尋ねた。 アメリカへ行くとき、どう やって船に乗ったのか。もしも二十歳に返って、同じ機会に恵まれても、やはりそうす るか。ぼくは彼に言った、アメリカに行きたいからというよりは、自分が何者でもない ことに対する怒りから、そうしたのだ。立ち去りたいというよりは、いつかみながぼく を飢え死にしたと決めこんだ日に、帰ってきたかったからだ。 村にいれば、ぼくはひと りの下男になるしかなかったろう
ーパヴェーゼ『月と篝火』河島英昭訳 岩波文庫

「月と篝火」とともにある農村/祭りと貧困と戦争

そ して刈株のなかの篝火の話を、ぼくがしたときにだけ、顔をあげた。「たしかに良いこ とだ」 いきなり彼は立ちあがった。「大地を目覚めさせるのは」
「でも、ヌート」 ぼくは言った、「チントでさえそれを信じないのだ」 やはり、と彼は言った、あの子も知らないのだ、熱のせいか炎のせいか、何が水気を 呼び覚ますのかともあれ、畑の端で火を焚いたときには、必ずはるかに水気の多い、はるかに質の良い、収穫がえられる。
「それは初めて聞いた」と、ぼくは言った。「それならば、きみも月を信じるのか い?」
「月は」とヌートが言った、「嫌でも信じなければならない。満月の夜に松の木を伐っ てみろ、蛆虫に食い殺されるから。 葡萄の桶は、月が若いうちに、洗わなければいけな い。 葡萄の挿し木だって、新月のうちにしなければ、根はつかない」
ーパヴェーゼ『月と篝火』河島英昭訳 岩波文庫

村の農民の生活の根幹にある「月と篝火」、しかしその裏側に、ぼくの知らないところに戦争が横たわる、ヌートが少しずつ重い口で語りだす、この小説内での月と篝火の多様な役割を読む

形を変えて現れる「月と篝火」のイメージ

月と篝火の話も知ってはいた。ただ、ぼくは気づいていた、もはやそれを知っているとは言えないことに。
ーパヴェーゼ『月と篝火』河島英昭訳 岩波文庫
月と篝火は、直接的には農村生活における農作業上の迷信として描かれる。しかし、それ以外にも、特に篝火はさまざまなものを象徴している。月と篝火こそが農村生活を規定している。むしろ、どんな政治活動や戦争でさえも表面的なことで、どれだけひとが死のうとも、結局は月と篝火こそが農村の生活を規定する。
篝火と祭り:農村における祝祭の象徴
篝火と貧困:チントの村での火災
篝火と戦争:サンチャの死

 

祭りの祝祭性、儀式をはらむもの、農村生活の一環としての祭り

貧困と戦争は村に暴力をもたらす、いずれの場面にも篝火がたかれ、月はめぐり続ける
どれほど過酷で悲惨な暴力が行使されても、月と篝火が生き続け、農村はそのサイクルによって回り続ける

農村の秘密/繰り返される性と暴力

村に隠された貧困と性と暴力が露になるが、それらを越えて季節が流れる

貧困の果て/こうであったかもしれない人生

ベルボの谷間から彼は一歩も出なかった。いつのまにかぼくはあの小径に立ち止まって考えていた、もしも二〇年前に逃げ出さなかったら、それはぼくの運命でもあったのだ。けれどもぼくのほうは世界じゅうを、彼のほうはこのあたりの丘の世界をさまよいつづけた。そしてさまよいつづけながら、ついにふたりとも口に出して言うことはな かった、《これがぼくの持物だ。この横木の上で自分は年をとるだろう。 この部屋のなかで死ぬだろう』とは。
ーパヴェーゼ『月と篝火』河島英昭訳 岩波文庫
ぼくがこうであったかもしれない可能性、ガミネッラの荒屋で
もし叶うものなら、財産を投げ出してでも過去の幼少期を取り戻したい、過去と再び会いたいと願う男
現在の寒村の様子から、もし自分が村に残っていたらこうであったかもしれない人生について考える
特に故郷を離れた人と地元に残った人が数十年後に出会ったら
ぼくは、こうであったかもしれない人生の側のぼくが貧困の中で破滅し、またぼくの幼少期の生き写しを救う手助けをする
ここでも、季節のように人間がめぐり続けることが描かれる

娘たちの最期/篝火

葡萄畑からたくさんの枝を伐ってこさせ、見えなくなるまで彼女を覆った。そしてガソリンをかけ、火をつけ た昼にはすっかり灰になっていた。去年までは、まだそこに残っていた、篝火を焚いたような跡が
ーパヴェーゼ『月と篝火』河島英昭訳 岩波文庫

ぼくはヌートから娘たちの最期を聞く、当時憧れだったものの末路、若かった頃にあこがれだった娘たちの運命、みずから選んだかのように没落していくこと、篝火となったこと

死んでいくもの/残り続けるもの

奇妙なことに、すべてが変わってしまったようでありながら、やはり同じだった。昔 の葡萄の樹は一株も残っていなかったし、家畜もそうだった。いまでは牧草地は麦畑に なり、麦畑は葡萄畑になり、人びとは移ろい、成長し、死んでいった。 木の根は崩れて、 ベルボ川へ落ちこんでいたにもかかわらず、あたりを見まわせば、ガミネッラの大 きな山肌が、遠くサルトの丘から丘をめぐる小径が、麦打ち場が、井戸、人声、そして きらめく鍬が、すべてが少しも変わらずに、すべてがあの匂いを、あの気配を、昔のあ の色あいをとどめていた。
ーパヴェーゼ『月と篝火』河島英昭訳 岩波文庫
この小説が単なる故郷再訪話ではなく、それ以上の価値があるのは、
季節が繰り返すように、ひとの営みや過ちのすべてが繰り返される
めぐり帰ってくるという主張
季節も、そこに住む人間も破壊と再生・回帰を繰り返しながら、巡り続けていくということ
ぼくは思った、何もかも同じなのだ、同じ姿ですべてが立ち返ってくる かつてふたりの姉をぼくが連れていったように、二輪馬車に乗せて、あの丘から丘 を、サンタを連れて祭にゆくヌートの姿がぼくには見えた。
ーパヴェーゼ『月と篝火』河島英昭訳 岩波文庫
主人公は傍観者であるということ

故郷の意味/まためぐり帰るために

故郷は要るのだ、たとえ立ち去る喜びのためだけにせよ。 故郷は人が孤独でないことを告げる。 村人たちのなかに、植物のなかに、大地のなかに、おまえの何かが存在しおまえがいないときにもそれが待ちつづけていることを知らせる。
ーパヴェーゼ『月と篝火』河島英昭訳 岩波文庫

「月と篝火」に基づいた農民的な世界と通底する戦争と暴力、貧困と性によって血が流されるということ

それらを越えて季節は巡り、同じことが脈々と繰り返されること

それらの暴力と血の匂いが傍観者であるぼくを引き寄せる、まるで「故郷」のモチーフのように、故郷はそこに住む人間の暗部を隠しながら、それでも季節はめぐり、同じことは繰り返される。そしてその一方で、季節は巡りながらも流浪するぼくに残り、孤独ではないようにする

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