作品の概要/あらすじ
- フランスの作家ボリス・ヴィアンによる1947年の小説。
- 日本語訳は、1970年出版の曽根元吉訳『日々の泡』、1979年出版の伊東守男訳『うたかたの日々』が存在
- 日本でも映画化(『クロエ』(2001年, 日本))・漫画化(漫画『うたかたの日々』(宝島社、2003年))がされている。
- 裕福な青年のコランと恋人のクロエの恋愛を中心とする若者の群像劇が描かれているが、ブラック・ユーモアや誇張、奇抜な舞台装置など、唯一無二の独特な「恋愛小説」となっている。
きれいな女の子とデューク・エリントン/それ以外の醜い世界
二つのことがあるだけだ。それは、 きれいな女の子との恋愛だ。それとニューオーリンズかデューク・エリントンの音楽だ。 その他のものはみんな消えちまえばいい。なぜって、その他のものはみんな醜いからだ。
ーボリス・ヴィアン『うたかたの日々』伊東守男訳 ハヤカワepi文庫
金持ちの青年の退屈
彼は指をなめて、頭の上にかざした。だがすぐに下ろした。 天火の中のように熱いのだ。 「空気の中に、恋の気配がある。ものすごい熱さだ」と、コラン。
ーボリス・ヴィアン『うたかたの日々』伊東守男訳 ハヤカワepi文庫
はかなく短い幸せな日々/恋することのスピード
「こちら、コランよ」と、イジス。「コラン、クロエを紹介するわ」
コランは思わず、生唾を飲み込んだ。口の中にまるで熱い揚げ菓子をいっぱいほおばったみたいだった。
「こんにちは」とクロエ。
「こんにちは…君、デューク・エリントンにアレンジされたんじゃないの」と、尋ねる コラン。そう言うが早いか、彼はすたこら逃げ出した。ばかなことを言ってしまったかと思ったからだ。
ーボリス・ヴィアン『うたかたの日々』伊東守男訳 ハヤカワepi文庫
不吉な予感に満ちた新婚生活/咳・労働・汚れた川
本来最も幸福であるはずの新婚旅行で、不吉さが現れる。ボリスヴィアンの意地悪さが発揮される。①病気、②グロテスクな世界、③労働
肺病と花々
クロエは雪とたわむれるために立ち止まった。
柔らかい新 な雪の塊は真白いままで、融けようとはしなかった。 「ねえ、ちょっと見てよ。きれいでしょう」とコランに言うクロエ。
雪の下には桜草や矢車菊やひなげしが咲いていた。 「そうだなあ。だけどそんなものにさわっちゃだめだよ。風邪をひいちまうぞ」とコラン。 「あら、そんなことないわ」と言うそばから彼女は、絹の布地が裂けるような声を出して咳をし始めた。
「クロエったら、そんなふうに咳をするもんじゃないよ。苦しいだろうに」とクロエを抱きかかえながらコラン。
ーボリス・ヴィアン『うたかたの日々』伊東守男訳 ハヤカワepi文庫
ボリスヴィアンの意地悪さが発揮される、こんなことが起こりませんようにと祈るようなことが起きていく、しかも美しくグロテスクな比喩でもって、読み進めるのが憂鬱になるほどに
肺病と花々
労働と搾取
「だけど労働するのはいいことだと思っているとしたら、間違いじゃないかしら」
労働は神聖だ。実に美しい、いいもん そうは思わないよ。 ただみんなから、だ。 なんて言われてるからさ。 *労働者だけが全部のものに対して権利を持ってるんだ ってね。だけどうまくはめられてしょっちゅう働かせられているもんで、労働の果実を 分たちの自由にすることができないんだな」
「でも何よ、それじゃばかみたいじゃない」とクロエ。
「うん、ばかみたいだよ」とコラン。
ーボリス・ヴィアン『うたかたの日々』伊東守男訳 ハヤカワepi文庫
クロエの病気が深刻になり、医療費がかさんでいくにつれて、コランは労働の世界に投げ込まれざるを得なくなる。コランの没落は遊民的な世界から労働の世界に没落していく、労働は暴力の中で、買いたたかれ、搾り取られ、搾取される世界。天使のように特別な存在であったコランも例外なく、無名の搾取される対象に落ちていく
恋愛の世界ではかけがえのない存在であった登場人物が労働の世界では無名で搾取されるだけの存在であるということ、また等価交換にもならない等価交換の果てに、擦り切れていくということ、それでも相手のために献身し捧げ尽くすこと、なぜなら、そうするしか存在する意味がもう残されていないから
ただし、逆の意味で言えば、捧げる対象があることの幸福さを感じられる、他の労働者には捧げる対象さえもなく搾取されるだけなのだから
世界の裏側/汚れた川
格子の下はエーテルの混ざったアルコールが流れており、膿や、血膿や血に汚れた綿 のタンポンもときどき浮いていた。あちこちに半分固まった血が長い紐状をなして、いい かげんもう分解してしまった肉の破片を色どりながらゆっくりと流れていっており、解け かかった氷山のように自転していた。ただエーテルの臭いがするだけだった。ガーゼの破 片やら包帯のくずなどがやはり流されてき、眠ってしまったような輪を自然とほどいていっていた。家々の右側には下水管が一つついており、運河に続いていた。
ーボリス・ヴィアン『うたかたの日々』伊東守男訳 ハヤカワepi文庫
「心臓抜き」に連なるように、川の描写、一般的な恋愛小説であれば、恋愛の表層を描くことを目的とした小説であれば必要ない。ついにボリスヴィアン的な世界に入り込んでいくことが暗示される、二人は嫌悪感を感じるが、まさにその嫌悪感は正しい
これまで一面的な、美しい部分しか見せてこなかったボリスヴィアン的な世界が、ようやく、金を失ったとたん、本性を現す
それぞれの没落/美しいものがグロテスクな世界に飲み込まれていく一部始終
コランのアパートの場合/真っ暗でしめった部屋
もう食堂には入れなかった。天井がほとんど床とくっついてしまった。半分植物性、半 分鉱物性のものが沢山、湿った暗闇の中で発達してきたからだ。廊下のドアはもう開かな かった。ただ細い通路が入口からクロエの部屋までようやく通じているだけだった。
ーボリス・ヴィアン『うたかたの日々』伊東守男訳 ハヤカワepi文庫
コランとクロエの場合/花々と不幸のリスト
彼はいまや毎日いろい ろな人たちのところを訪問しなければならなかったのだ。リストを渡してもらい、彼の役割は、不幸のある一日ほど前に関係のある人たちのところに知らせに行くのだ。
ーボリス・ヴィアン『うたかたの日々』伊東守男訳 ハヤカワepi文庫
ハツカネズミの場合/血だらけになった手
真黒な口髭をしたハツカネズミが一匹、台所の廊下のタイルの破片を一枚持ってやって来、お陰で周りがポーと明るくなった。
「あんまり暗くなりすぎると、光を持って来てくれるのよ」と説明するクロエ。 彼女がネズミを撫でてやると、ネズミは枕元のテーブルの上に、持って来たものを置いて行った。
ーボリス・ヴィアン『うたかたの日々』伊東守男訳 ハヤカワepi文庫
恋の終わり、擦り切れたレコード/残り続ける醜い世界
「時間が過ぎてしまうと水のほとりにやって来て写真を眺めていた」とネズミ。
「物はもう食べないのかい」と猫。
「食べないんだ。身体がすっかり弱っちまって、見ていても我慢できないぐらいだよ。そ のうち板の上でつまずいてしまうんじゃないかな」とネズミ。
「それがお前にどうしたっていうんだ。そいじゃ奴は不幸なんだな、きっと」と猫。
「彼は不幸なんていうものじゃない。 苦しくてしょうがないんだよ。おれにはそれが我慢できないんだ。それに水の上にこごんでばかりいるから、そのうち水に落っこっちゃうよ」とネズミ
ーボリス・ヴィアン『うたかたの日々』伊東守男訳 ハヤカワepi文庫