さまよう|J・D・サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ/The Catcher in the Rye(1951)」

Novels
こんにちは、今回は1951年に出版された小説 J・D・サリンジャー「キャッチャー・イン・ザ・ライ」を取り上げたいと思います。
  • 職場や学校に居心地の悪さを感じ、なじめないと感じている…
  • どうしても我慢ができず逃げ出したことがある…
  • 嫌いなものはいくらでも思いつくのに、好きなものは言葉にできない…
この記事は、こうした思いを感じたことがあるひとに特に読んでもらいたいと思います。
また、この作品を一度読み通したが「なんだかよくわからず終わってしまった…」「いまいち響かなかった…」というかたも魅力を再発見するきっかけになるはずです。
ここでは、この小説のエッセンスを「放浪すること」「役割を探すこと」として、作品の魅力をお伝えしていきます。

作品の概要/あらすじ

  • 同作品はJ・D・サリンジャーにより1951年に出版された長編小説。1945年12月に原型となる作品「僕はちょっとおかしい/I’m Crazy」が発表され、その後1949年から長編に改変され、1950年秋に完成した。
  • 複数の日本語訳が存在し、特に有名なのが1964年出版の野崎孝訳『ライ麦畑でつかまえて』と2003年出版の村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』。その他、1952年橋本福夫訳『危険な年齢』(!)や1967年繁尾久訳『ライ麦畑の捕手』などの訳が出版されている。
  • 発表後、文壇からは賛否両論があり、また保守層やピューリタン的な道徳的思想を持った人からは激しい非難を受けた。しかし主人公ホールデンと同世代の若者からは圧倒的な人気を誇り、2007年までに全世界で6000万部以上の売り上げを記録。現在でも毎年約50万部が売れているとされる。さまざまな文学・音楽・アニメなどに影響を与えている。

  • 主人公の少年ホールデン・コールフィールドが、高校を退学してから数日間、ニューヨークをさ迷い歩く物語。そこで彼は過去を振り返りながらいくつかの出会いを経ていく。
  • 作品名の由来は、ホールデンが路上で偶然聞いた歌の歌詞からとられている。「ライ麦畑で誰かが誰かを捕まえたら(If a body catch a body coming through the rye.)」
だから、読者はホールデンの好ましいことと許しがたいことに付き合うこととなります。
簡潔に言うと、ホールデンの「好き嫌い」に共感できるかどうかが鍵になるが、単なる好き嫌いでは済まないのです。
 
 
※以下、ネタバレを含みます!!※

すれ違いと拒絶の悪循環/果てしない放浪の物語

僕としては、ああもうここともお別れなんだな、という感じがつかみたくて、そのへんでぐずぐずしていただけなんだ。つまりさ、僕はこれまで、どさくさみたいな感じで学校とかいろんな場所をあとにしてきたんだけど、そういうのは正直言ってもううんざりだった。それが悲しい別離であったとしても、いやな感じの別離であったとしても、僕としちゃべつにかまわないんだ。 ただどこかをあとにするときには、自分がそこをあとにするんだということを、いちおう実感しておきたいんだよ。 そうじゃなくっちゃ、救いってものがないじゃないか。
ーJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 白水社

この小説は出版当時からよく「反抗」の物語として語られます。「危険な年齢」?しかし、この物語はもっと普遍性をもっている。しかしここでは「放浪」の物語なのではないかと考えます。それは、~~~だからです。

小説中でホールデンはいくつかの別れ、生理的嫌悪、逃避を経験します。けれどもそれは反抗とは言えない、絶えず嫌悪なのです。
【参考】ホールデンの好きなものと嫌いなもの
好きなもの
  • アリーの野球ミット
  • フィービー
  • イエス
  • 二人の尼
  • 小さな子供たち
  • ライ麦畑のキャッチャー
  • 博物館
  • 素敵な女の子
  • オーケストラでティンパニーを叩いているひと

嫌いなもの

  • 金持ち学校
  • ゲーム
  • 母にプレゼントされたスケート靴
  • セックス
  • 臆病さ
  • 十二使途
  • 退屈な男たち
  • 車やゴルフ
  • ファックユーの落書き
そして、生理的な嫌悪をコントロールできず
期待を抱く→嫌なものに出会う・嫌悪を感じる・すれ違う→そこから逃避する・追い出される→またさ迷い歩く
物語の中でこのサイクルをひたすら繰り返していくのです。この物語はまさに、すれ違いや食い違いを繰り返して、衝動的にその場を離れることを繰り返し、ホールデンがんどん自分の居場所を失う悪循環にはまり込んでいく物語なのです。

反抗と拒絶の違い

そもそも反抗とは何でしょうか。
中学時代の話、第一ボタンをあける、ズボンを腰までずり下げて履く、香水をつける。そもそも、反抗が反抗でいられるのは校則というルールがあるから。だから反抗というのは形式化していく。パンクロックも同じ、ファッションパンクという言葉もある通り。
一方、ホールデンの場合は嫌悪と否定から生まれている。だからこそ、特にルールに逆らいたいという気はない。ルールに反抗することが重要なのではなく、嫌いなものと一緒にいたくないと、ひたすら拒絶を繰り返しているのです。
反抗のスタイルは時代によって移り変わるため、時として一過性のものになります。「大人社会」や「大衆」などに単に反抗するのではなく、拒絶の果てにさまよい続ける主人公像を描いていることが、本作が普遍的である理由とも思える

悪循環のなかで突き付けられる問い

「君はさ、何かにうんざりしちゃったことってあるかい?」と僕は言った。「つまりさ、ここで何かやっておかないと、すべてが先になってひどいことになっちまうんじゃないかとか思って、 怖くなったりしない? 」
ーJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 白水社
「ホールデンが勝手すぎる」と感じた読者も多いのではないでしょうか。けれども、ほんとうにそうと言い切れるのか。
ブラック企業、いじめ、家庭内のトラブル、そうしたものからどうしようもなく逃げ出すことを、完全に自分の弱さのせいだと言い切れるのか。
もちろん、感受性はひとそれぞれだから、どうしてそこまで…というひとも中にはいるが
自分が価値のない存在と感じられ、次の場所でもうまく関係を保てず、また逃避する…果てのない悪循環、その悪循環の中で、ひとは自己肯定感を失い、自分の存在意義を見失っていくのです、またそのなかで友人関係なども落とし、いったい私は何をやっているのかと、根本的に問うていくことを余儀なくされるのです

消え失せるという強迫観念/制御できない衝動

で、息を整えるとすぐに204号線を駆けて渡った。道路はしっかり氷結していて、それであやうくすべっちまうとこだった。なんでわざわざ走らなくちゃならないのか、自分でもそのへんはよくわからないけど、たぶんただ走りたかったんじゃないかな。道路を渡りきったとき、なんだか自分がすっと消え失せていくような気分になった。つまりそんな感じのでたらめな午後だったんだよ。やたら寒くって、太陽なんかもぜんぜん顔を見せてなくて、ひとつ通りを渡るごとに、自分がそのまま消え失せていくみたいな気がしちゃうわけだ。
ーJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 白水社
また、その悪循環に拍車をかけるのが、ホールデンの衝動なのです。自分が消え失せていくという強迫観念、そのことへの恐怖。自分というものがなにか固定的なものではなく、絶えず動き続ける衝動や好悪でしかないということに関する強迫観念。
性や暴力への嫌悪、融解することへの嫌悪、潔癖であるということ、あまりにも制御不能で変わり続けて流れ続けていく、
これまで守りたいと思えるものがなかったということコントロールできない自分の嫌悪感と、その反対に変わらないものへの愛着、博物館、隔世など
 
音楽もそう、音楽が鳴っているときは踊る。音楽が鳴りやんでしまえば何も残らない、虚しさや疲労が残るだけ、自分が制御不能の衝動に駆り立てられているということ

変わらないものへの愛着

でもね、この博物館のいちばんいいところは、なんといってもみんながそこにじっと留まって いるということだ。 誰も動こうとはしない。
ーJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 白水社
博物館、この小説でほっとする部分

平等でわかりあえる理想世界/悪意と断絶に満ちた現実世界

それではこの小説は単なる好き嫌いの小説か、それは違う、好き嫌いから浮かび上がるのは、ホールデンがなにか実現されるべき理想を追い求めていることが見えてくる

「平等でわかりあえる」世界、つまり例えば子どもの世界

ホールデンが求める平等を阻むものが欲望、欲望の世界は弱肉強食の世界、ゲームの世界、一方ホールデンは弱いものしかいない、ゲームにならない、参加することもできない

だから、ここまでくるとこの小説は「大人社会に反抗する」ではなく「欲望から潔癖であろうとする」小説、そうしてどんどんこの欲望世界から遊離していく

平等で配慮に満ちたやさしい世界のまぼろし

二人は朝食にトーストとコーヒーしか とっていなかった。おかげで比較的落ち込んじゃったね。自分がベーコン・エッグズなんかを食 べているときに、ほかの誰かがトーストとコーヒーだけだったりすると、なんかいやな気がするんだよ。
ーJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 白水社

修道女への対応、救いって何?共感や心が通じ合うこと、理解、平等であること、十二使途よりイエス、承認することについて

君もきっと妹のことが気に入る と思うよ。君が何かをしゃべるとするね。するとこの子には君が何を言いたいのか、ぴたっとわ かっちまうんだ。そういうこと。
ーJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 白水社

フィービーという存在=少し現実離れしている天使のような存在?何も言わなくてもわかってくれる(わかってしまう)、小さな母親のような存在、母親ではなく幼児が母親的な役割を果たす、けれどもフィービーは無力、子どもの世界、その逆、母からのプレゼント

相手への理解をはばむ性と暴力への嫌悪

一人の女の子を知るってのは、セックスとは無関係にだってできることなんだ。
ーJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 白水社

女の子たちへの対応、セックスへの嫌悪、相手をモノ化することへの嫌悪、幾人かはの女の子が出てくるが、明確に違う

悪意と断絶の象徴としての「ファック・ユー」の落書き

誰かが壁に「ファック・ユー」って書いていたんだ。それを見て僕はほんとに頭が変になるところだったね。僕は フィービーとか、小さな子どもたちがそれを見て、「これはどういう意味なんだろう?」と首を ひねるところを想像した。それからどっかのいやらしい子どもがそれが何を意味するのか教えち ゃうんだよ。もちろんとことん歪めてということだけどね。おかげでみんなは二日くらいそれについて考えて、あれこれと気に病んだりもしちゃうわけだ。そんな落書きをしたやつを殺してや りたい、と僕はひとしきり考えた。
ーJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 白水社

けれどもそんな世界は訪れず、欲望と悪意の中で引き裂かれた挙げ句、その象徴たる「ファック・ユー」サインを見る

拒絶と放浪の果てに残ったもの

「けっきょく、世の中のすべてが気に入らないのよ」
それを聞いて、僕はさらにぐんぐん落ち込んでしまった。
「そうじゃない。そういうんじゃないんだ。絶対にちがう。まったくもう、なんでそんなことを言うんだよ?」
「まさにそのとおりだからよ。あなたは学校と名のつくものが何もかも気に入らないじゃない。 気に入らないことがごっそり百万個くらいあるじゃない。そのとおりでしょう?」
「そんなことあるもんか! それは言いがかりだ。君の大きな考え違いってもんだ。なんでそんなひどいことを言うんだ?」 やれやれ、僕はこてんぱんに落ち込んだよ。
「なんでもかんでもが気に入らないのよ」とフィービーは言った。 「気に入っているものをひとつでもあげてみなさいよ」
ーJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 白水社
衝動的な好悪により逃避することを繰り返し、ついにホールデンは行き場を失う
まるでこの世を、すれ違いやトラブルのない、すべてのひとが全的に承認されているような天国に作り替えたいという理想
それができなければ心を閉ざして隠遁するという
  • 選択肢1:隠遁生活について、世の中から逃避して心を閉ざすこと
  • 選択肢2:「ファックユー」サインを消していくこと
  • 選択肢3:ライ麦畑のキャッチャーになること
最後に何も残らなければほんとうの虚しさ、ぎりぎりの質問、実存的な、なにも見つからなければ真っ暗闇、そして読者は気づく、ホールデンはたださまよっているのではなくて、探し求めていたのだと、「真善美」、みつかったのはかりそめの美しさだけ、真理はそもそもない世界、では善いものは?→キャッチャー

なにも残らない美しさ/土砂降りの雨の中で

フィービーがぐ るぐる回り続けているのを見ているとさ、なんだかやみくもに幸福な気持ちになってきたんだよ。 あやうく大声をあげて泣き出してしまうところだった。僕はもう掛け値なしにハッピーな気分だったんだよ。 嘘いつわりなくね。 どうしてだろう、そのへんはわからないな。 ブルーのコートを 着てぐるぐると回り続けているフィービーの姿がやけに心に浸みた、というだけのことかもしれ ない。いやまったく、君にも一目見せたかったよ。
ーJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 白水社
フィービーとのラストシーン、きれいだなということ、自分は蚊帳の外で眺めているだけ、悲しくも美しい、天国を外から眺めるような、ラストシーンの大雨、ハードレイン、トラヴィス
けれども、美しさはすぐに消えていく、何も残らずに、美しいものを描いただけでもこの小説は十二分に価値があるが、やっぱり何も残らなかったの?
この小説が真の価値を有していることはさらにその先が与えられているということではないか。

あなただけの役割/私の居場所

で、 僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱ しからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までず っとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。たしかにかなりへんてこだとは思うけど、僕が心からなりたいと思うのはそれくらいだよ。
ーJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 白水社
ティンパニー担当の人、どんなに日が当たらなくても自分の役割をまっとうすることの重要性を語る、けれども一方でホールデンにはずっと役割がない、
それが、最も追い詰められて役割が登場する
ホールデンは「キャッチャーインザライ」という「役割」を望む
特に行動するわけでもなく、確かにあまりにぼんやりしすぎていて抽象的ではあるけれども、その役割の鮮やかさが魅力
「役割」というものについて、私という居場所について
宮沢賢治の「雨にも負けず」との共通点
私という役割=価値を探すための放浪
物語の冒頭で不遇な状況にいることが述べられるホールデンの幸せを願う
美しいものはすぐに消えていく、衝動のように、それよりも、役割を見出すことのほうが重要
ほとんどが「さまよう」物語だが、その先で役割を「見出す」物語でもある、見出した役割が偶然にことば遊びによって見つけられた抽象的なものであることも重要、具体的な職業か何かではなく
ここに「ことばの力」を感じる、「天命Calling」「使命」=役割、世界を断ち切ってすべてを拒んでガソリンスタンドでバイトするのとは違う、世界のどこかで君を待っているひとがいる、ホールデンはまじめ、ただ探しているだけ、なぜ反逆児と言えるのだろう?

ホールデンのその先の物語

この小説の優れているところ
「嫌いだけではなく美しいものを描いた」「役割を描いた」
そして、今作以降、サリンジャーはさらにテーマを深め、「なにが好きでなにが嫌いか」から「なにかを好き嫌いと考える(ばかばかしい)自分自身とはそもそも何か・どうあるべきか」という問いへ
どうやったら大嫌いな「ふとっちょのおばさま」と和解できるかへ
フラニーとゾーイーに続く

いつでも好きなときに電話したくなる作家

僕が本当にノックアウトされる本というのは、読み終わったときに、それを書いた作家が僕の大親友で、いつでも好きなときにちょっと電話をかけて話せるような感じだといいのにな、と思わせてくれるような本なんだ。
ーJ・D・サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳 白水社
この選書の基準は、そのまま私の選書の基準でもあります
この言葉のとおり、サリンジャーは確かにつらいときに電話をかけたくなる作家
例えばフォークナーは、ボリス・ヴィアンは、ヴァージニア・ウルフは、と考えてみるのは楽しいですね。
文学の意義はひとによってさまざまあると思うのですが、やはり人生の喜びや悲しみを共有できる、文章だけれども交流できること、それが文学の魅力
ここで取り上げる作家のほとんどは電話はできないが、はるかな手紙のように
 
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