みちたりる|スパークルホース「Sunshine(1998)」

その日の天気に気分が大きく左右されるひとがいます。あなたはどうでしょうか。私はかなり左右されるひとです。
また、人生のありようも時に天気に左右されることがあります。時に好天や雨天に例えられる。どうして雨ばかりなのか?と歌われたりする。それらが歌になるのは、天気というものが自分の思い通りにいかないから。さらに言えば、私たちは晴れも雨降りにもまったく無力だからです。ひとはそこに小さな運というものを見ます。いつも晴れていることやいつも雨降りであることはないけれども、望んだときに陽光を受けられるかどうかはまったくの運しだいで、それは私にはどうしようもないこと。

また、さらに言うと、晴れるか雨降りかが、人生を左右するほどの一大事だとしたら。現実的な話ですが、冬場の日照時間と自殺率には大きな関連性があるとはよく指摘されること。特に、私が住む地域は冬場に陽光が足りないところです。光の療法などもあるくらいですが、確かに冬場などは、ひたすら夜のような天気が続いた後に、晴れの日が訪れると、陽光を浴びるだけで幸福感に満ちて、なにものかに認めてもらえるような満ち足りた気持ちになる。陽光の中でまどろむのは本当に気持ちがいい、すべて満ち足りて寝転んでいられる、陽光の中では不思議と認められ、不安が消える状態になります。ひとはその時、みずからを幸運だと思うでしょう。けれども日が陰り、あるいは沈んで行ってしまうと、私だけが取り残される、不安や焦りの中で、遺棄された、見捨てられたような気持にさえなる。
そしてもう一度陽光が差すかは、それはすべて私にはコントロールできないこと。ひとによっては、そのことに対する無力感と諦め、投げ出してしまうかもしれません。ただし、もう一度運よく陽光があれば幸福感に包まれ、なにもかも、破滅の予感さえも祝福されているかのような錯覚に陥る、まどろみのなかで。

今回取り上げる楽曲は、一見すると異様な歌詞です。そこには、「陽光に寝そべってくつろぐこと、虫たちを這いまわらせながら」と「何者か高い存在に慈悲のもとに承認されること」と「すべてを失う破局の予感」、それらが多幸感、祝福されている感じ、華やかで満ち足りた、儚くも穏やかな雰囲気の中でひとつになっているのです。無力な存在である私を包む、かりそめの多幸感、まどろみのなかで、この楽曲の魅力は、まさにその異質なものたちが溶け合う様が描かれ、そして説得力があることなのです。

楽曲の概要

  • マーク・リンカス(1962-2010)のソロ・プロジェクトであるスパークルホースが1998年に発表したセカンド・アルバム「Good Morning Spider」に収録された楽曲。
  • 1995年にファースト・アルバム「Vivadixiesubmarinetransmissionplot」でデビュー後、レディオヘッドのオープニング・アクトとしてヨーロッパ・ツアーに同行したが、アルコールと薬物のオーバードースにより半年の間、車椅子での生活を強いられた。同楽曲はその苦境の中で書かれたもの。
  • 悲痛さと穏やかさが混在するスパークルホースの楽曲群において、穏やかさを代表する楽曲。

陽ざしのなかのつかのま

I opened my eyes
and watched the sunshine
it had been out all night
to relax and unwind
-Sparklehorse “Sunshine”

歌い手の「私」が陽ざしのなかでくつろぐさまが描かれます。ただし、スパークルホースの楽曲で陽ざしが取り上げられるとき、単なる日光浴とは異なる意味が込められているのです。陽ざしは「奪い去られるもの」として、喪失感をこめて歌われているのです。

奪い去られた陽ざし/さらにふたつの楽曲から

ここから、スパークルホースに関連するふたつの楽曲を取り上げ、「陽ざし」に含まれる意味をさらに深堀りします。一曲目はスパークルホースの4作目にして最後のアルバム冒頭に収められた「Don’t Take My Sunshine Away」です。特に、”sun”と”sunshine”が使い分けられている点に注目です。

Your face is like the sun
Sinking in to the the ocean

Baby you are my sunshine
My sunshine
Please don’t take my sunshine away
-Sparklehorse “Don’t Take My Sunshine Away”

「陽ざし」は太陽そのものから発せられ、私を含むすべてのひとに等しくあたたかさを届ける存在。けれども、その時々の天気や場所次第では、陽ざしの恩恵にあずかれる幸運なひとと、陽ざしを長く失った不幸なひとが生じます。不幸なひとは、奪い去られてしまった陽ざしのために、懇願するしかないのです。

さらに、ここからはアメリカのトラディショナル・ソング「You Are My Sunshine」を取り上げます。一度は耳にしたことがある方も多いと思います。上記「Don’t Take My Sunshine Away」にて引用されています。

The other night dear, as I lay sleeping
I dreamed I held you in my arms
When I awoke, dear, I was mistaken
So I bowed my head and I cried

You are my sunshine, my only sunshine
You make me happy when skies are gray
You’ll never know, dear, how much I love you
Please don’t take my sunshine away
-Jimmie Davis/Charles Mitchell “You Are My Sunshine”

ここでは、陽ざしは歌い手を見捨てた恋人に重ねられます。陽気なメロディとは対照的に、幸福の源泉である恋人を失った深い喪失感に満ちた嘆きが歌われます。陽ざしは愛する者の比喩として用いられている一方で、いまはもういない、去っていった恋人の象徴でもあるのです。

つまり、”sunshine”ということばには、「いずれ奪い去られてしまうもの」というニュアンス、また、懇願する無力な男のイメージが含まれます。その無力感の根底にあるのは、陽ざしは人間にはどうすることもできない、人間を越えた存在という諦めの感情です。

無力なわたしと虫たち

I lay down on the grass
and let the insects do their thing
-Sparklehorse “Sunshine”

草原に寝転んで、虫たちに好き勝手にさせ、追い払うこともしない歌い手。ここでも歌い手の無力感が示されているとともに、むしろ昆虫たちは、はるか高みから降り注ぐ陽ざしに比べれば、歌い手に近しい存在として描かれているのです。つまり、歌い手も虫けらと同じように、無力な、ガラクタのような存在であるということ。

翼を持つ「彼女」/がらくたの存在

She covered me with wings and
held my head and said ‘poor thing’
-Sparklehorse “Sunshine”

「彼女」が唐突に唐突に登場する。さらに、この「彼女」と呼ばれる存在には翼があり、歌い手を抱いて、まるで母親が子をあやすように’poor thing’(かわいそうに)とつぶやくのです。この「彼女」という異質な存在は、否が応でも天使のモチーフを連想させるし、あるいは無力な歌い手を慰める恋人を思わせます。それはまるで、「You are my sunshine」の歌中で、失った恋人が夢の中でだけ、また歌い手のもとに戻ったように。

歌い手が、無力で虫たちと似たはかない存在であることは、天使を思わせる「彼女」という存在とは対照的であるとともに、「彼女」の慰めは、歌い手が何もかも失っていつか必ず滅んでいくということを浮かび上がらせます。そして、陽ざしがはつかのまの幸福をもたらすものでしかないように、「彼女」の慰めもかりそめのものなのです。

破局の予感/壊しつくされるわたしのモノ

There will come a time gigantic
waves will crush the junk that I have saved
-Sparklehorse “Sunshine”

陽ざしの中でつかのまの幸福を感じていた歌い手は、同時に途方もない破局の予感に満ちています。それは、これまで大切に守ってきた所有するモノたちが根こそぎ奪い去られるという予感。これが「巨大な波」という極めて大きな破局のイメージにより語られる。

私の所有物は、私がどんな人間で、どう生きてきたのかを間接的に表すものです。歌い手が大切にするがらくたとは、それらがどれほど無価値でも、歌い手がこの世界にいる証でもあります。そのがらくたを根こそぎ破壊されるということは、すさまじい暴力を連想させます。また、このような不吉な予感が生じるのは、歌い手が虫けらのように自分の人生や運命に対してなすすべがなく、手の打ちようがないという圧倒的な無力感の表れでもあります。

しかし、このような破局的な予感に満ちているにもかかわらず、語られることばが異様なほどに幸福感に包まれ、晴れやかなのはなぜなのでしょうか。この祝祭的な雰囲気の中では、すべてを奪われる予感さえも、他人事のように遠く感じられます。

かりそめの幸せなまどろみ/無力感に満ちたことば、祝福された音楽

この幸福感の理由とは、無力感に満ちたことばが、陽ざしのような穏やかな音楽に包まれているからです。すべて根こそぎ奪い去られる破局を、つかのまの陽ざしの中で遠く予感すること。あるいは、ここで語られる破局とは、もしかすると陽ざしを奪い去られることの象徴なのかもしれません。

音楽という陽ざしが響き渡っているあいだは、破局の予感さえもまるで祝福されているよう。それは、この楽曲の中で、幸福感に満ちた音楽の中では不吉な言葉たちが穏やかに響きあっているのと同じように。けれども、ひとたび音楽が止んだとき、歌い手からは陽ざしの中にある幸福感が奪い去られ、暗闇の寒さの中で、自分の無力さやきまぐれな運命に翻弄されることになるのです。

タイトルとURLをコピーしました