ながれる|ボブ・ディラン「ブルーにこんがらがって/Tangled Up in Blue(1974)」

Lyrics

毎日同じ日常の繰り返しの中で、何かがよどんでしまうように感じたときがありませんか。流れがせき止められ、活動が停滞し、自分が何を目指して進んでいたのか、また進むべきなのかがわからない状況に陥ったように感じられるときが。そうした停滞のひとつの理由は、「安定した場所に定住すること」ではないでしょうか。そこでひとはみずからの持ち物を守るようになり、失うことが恐ろしくなり、誰にも心を開くことができなくなり、贅肉がついていく。ひとは「この安らかな日常が永遠に続くように」願い始めるけれども、叶うことはありません。

なぜって、私たちがみなすべからく時間の流れのなかにいる以上、人生の本質は「流れていく」ことであり、どれだけそれを拒もうとも、逃げることは出来ないから。日常がどれだけ静止しているように見えても、みな赤子として生まれ、なんらかの形で死を迎えるまで、一瞬たりとも立ち止まることができず、流れ続けているのです。

また、流れは向こうから突然訪れることもある。こちらがどれだけ定住を望もうとも、突然今の暮らしを蹂躙して、また新しい流れに投げ入れる、そんなこともあり得ます。

私たちが流れのなかにあることを一番簡単に思いだすためには、旅に出ることなのでしょう。みずからまったく違う環境に身を投げること。環境が違うほど、自分の感覚が研ぎ澄まされ、流れの中にいることが感じられる瞬間があります。また、生活の中にいても、なにかささやかな変化をつけるていくことができる。読書はよく旅に例えられるし、家具をひとつ動かすことだって変化であり、流れを生み出すことなのではないでしょうか。

いまが幸せであるほどに、変わってしまう、変えられてしまう、そう嘆くようになるのは当然のことだが、むしろ、変化が私たちの本質であるならば、変わっていくこと、または変わろうとしていくことが救いであり、そのことを祝福するように生きていくしかない。

今回はボブ・ディラン「Tangled up in Blue」を取り上げながら、この歌の根底に流れる「変化を望む力」を考えたい

この歌は、なにか新しいことを始めようとするひと、新たな場所で生活を始めようとするひと、また、穏やかで憂鬱な日常のなかで旅を忘れてしまいそうなひとに

楽曲の概要

  • 1975年発表の15枚目のアルバム「血の轍/Blood on the Tracks」冒頭に納められている楽曲。同アルバム全体がアコースティックを基調とした内省的なもの。
  • 特に、荒々しさと穏やかさをあわせもちながら、詩を朗読するようなディランのボーカルはこの時期にしかない魅力がある。
  • アルバムの発表後、1975年から76年にかけて「ローリング・サンダー・レヴュー」と銘打ったライブ・ツアーを行い、アメリカ各地を巡った。

流れていくふたつの魂/路上に降る雨

Early one mornin’ the sun was shinin’
I was layin’ in bed
Wondrin’ if she’d changed at all
If her hair was still red
-Bob Dylan “Tangled Up in Blue”

「私」である歌い手が「彼女」と呼ばれる女性を思うところから歌い手の流転が始まる。各所で雇用されながら流れていく私と、その行く先に現れその私に啓示をもたらす彼女、この歌の中での彼女という存在は、単に恋人というものを越えて、なにか私を流れの中に誘い出す、宿命的な存在にも見える。

And I was standin’ on the side of the road
Rain fallin’ on my shoes
-Bob Dylan “Tangled Up in Blue”

路上にいて雨が降り注ぐ、雨に打たれている、若さと憂鬱さ、この反対の状態が、定住して暖かい家があり、雨風から守られている状態。けれども、出会いは路上にあるということ。

「彼女」という宿命

I heard her say over my shoulder
“We’ll meet again some day
On the avenue”
-Bob Dylan “Tangled Up in Blue”

この歌の中で、彼女の存在は象徴的、流転の先で結びつきながら、私と離れたかと思えばまた結びつき、そして私も結局は彼女を目指して旅をしているかのように見える。本作では性別が男女となっているので恋愛的に語られるが、例えば、ケルアック「路上」のサルとディーンのよう、旅の途中で何度も出会う存在、出会いと別れを繰り返す、そのような存在に見える。まるで自分の影のように。そして私が雨に打たれて外をさまようように、彼女も流れの中にいて、いつかまた通りで会うと言う、それが私の宿命であるかのように。

また、彼女は私の欲望の源泉であると同時に、詩への目覚めをもたらす存在として描かれていることも興味深い。

Then she opened up a book of poems
And handed it to me
Written by an Italian poet
From the thirteenth century
-Bob Dylan “Tangled Up in Blue”

詩が魂に書き込まれるようだと語る私にとって、まさに彼女は単なる恋人を越えた存在

路上での出会い/別々の視点・おなじこころ

All the people we used to know
They’re an illusion to me now
-Bob Dylan “Tangled Up in Blue”

その後、多くの流転が描かれるが、特にどこで雇われたのか、金銭的な面が強調される。ただし、そこで出会ったすべての「彼ら」は結局、今や幻という。人生の本質的な部分ではなかったということ。大抵私たちは実生活上だとこの部分を最重視してしまうが、ビジネス上での友人知人としての「彼ら」が幻であると。

一方、彼にとって本質的だったのはいまでも路上にいること、そこで誰かとの出会いを待っている、また新たな流れを待ちわびて胸を高鳴らせるように、そしてその旅の途上には彼女が待っている

But me, I’m still on the road
A-headin’ for another joint
We always did feel the same
We just saw it from a different point
Of view
-Bob Dylan “Tangled Up in Blue”

結局、「私」はいまも路上にいて、新たな出会いを探す、それはまるで一生彼女を追い求めるかのように宿命づけられているかのように。私と彼女は同じように感じていた、ただ別々の視点からものを見ていた、ひとつに繋がれたふたつの魂のように、あるいは影のように。

この詩全体を通して、「彼女」は誘惑するものだが、抽象的に描かれているため、例えば「旅」など、多様に読める。読み手それぞれにとって、様々な「彼女」がいるのもこの歌の魅力。そして私は「彼女」に導かれるように、また路上に出ていく、路上にこそ流れがあり、その流れの源には誘惑する「彼女」がいるのです。

ビートニクとディラン、昔から登場していたが、もっともビートなディラン

ボブ・ディランという変化のひと

ボブディランは私にとって長らく「謎のひと」、アルバムを聞いても理解できた気にならない、例えば最も対照的なのがニールヤング、ニールはどれだけ表面的なスタイルが変わろうともいつまでもニールであり、だからこそ心から安心してファンでいられる。一方ディランはスタイルが変わるというよりは人そのものが変わっているようにも見える。実生活もそう。そんなディランがビート的であり、またそのためにある意味文学的だった時期の一曲。

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